GLAY・TAKURO『GLAY両A面シングルの振り幅、きっかけは ももクロの玉井詩織さん』「ももクロの玉井詩織さん!!」「とても良いっすよね」「しーちゃんの一文書かれている」

ももクロ

GLAY・TAKURO『GLAY両A面シングルの振り幅、きっかけは ももクロの玉井詩織さん』「ももクロの玉井詩織さん!!」「とても良いっすよね」「しーちゃんの一文書かれている」

 TAKURO
GLAYのTAKUROさんのインタビューが公開され、その中で “玉井詩織” の名前が出てきています!GLAYのデビュー30周年記念 両A面シングル『whodunit-GLAY × JAY(ENHYPEN)- / シェア』の発売に合わせたインタビューで、『シェア』のアレンジはTAKUROさんのしおりんへの楽曲提供もきっかけのひとつたと…(^^)

「“GLAYと知り合えてよかった”と思ってもらえる生き方を」 TAKUROに聞く、30周年迎えたバンドの現状https://t.co/8qM5waXTDh#GLAY #TAKURO #GLAY30th #whodunit #JAY #ENHYPEN https://t.co/8qM5waXTDh— Real Sound(リアルサウンド) (@realsoundjp) May 31, 2024

ももクロの玉井詩織さん! https://t.co/Xl1sgLFJuc pic.twitter.com/RZy4YhJpZm— まき♡ピンチ!ピンク? (@makiaran_No4_3) May 31, 2024

TAKUROが玉井さんの話を!!6/8は俺は西武ドームでGLAYさんを見てきますので、川崎ラゾーナの方は頼みます皆様、何かしらの縁は感じて嬉しいGLAYさんの根底の、『4人で活動してるのが楽しい』って感じは、ももクロさんともどこか通じる気が俺はしていたのですよ。とても良いっすよね https://t.co/rbpxyJm4Pq— 北@次は亀岡 (@224204hs) May 31, 2024

TAKUROさんが詩織ちゃんに提供した「We Stand Alone」がきっかけで、GLAYのデビュー30周年記念シングルの1曲「シェア」もシティポップ的アレンジになったというエピソードがーー! https://t.co/71s8lyhcFt— むらさき系こびと (@purple_K_kobito) May 31, 2024

ももクロしおりんの話も!TAKUROさん! https://t.co/buywRzOCfW— ダイ🍑ダイの大冒険 (@daiboukenkun) June 1, 2024

TAKUROさんの口から再びしーちゃんの名前が🥲💛 https://t.co/xfd9zWJovB— かな🤔@京都のももたまい夫婦ノフ (@kana_shichan) May 31, 2024

しーちゃんへの楽曲提供で一文書かれている https://t.co/oO2tXJXut6— ばすた (@baster1963) May 31, 2024

 関連リンク
・玉井詩織の1stソロアルバム【楽天】初回限定盤『【楽天ブックス限定先着特典】colorS (初回限定盤 3CD+ Blu-ray)(SHIORI TAMAI 12Colors フィルムカードセット(3月・4月柄)) 』通常盤『【楽天ブックス限定先着特典】colorS (通常盤 CD only)(SHIORI TAMAI 12Colors フィルムカードセット(3月・4月柄))』【Amazon】初回限定盤:『【Amazon.co.jp限定】「colorS」[初回限定盤](SHIORI TAMAI 12Colors フィルムカードセット(1月・2月柄)付き)』通常盤:『【Amazon.co.jp限定】「colorS」[通常盤](SHIORI TAMAI 12Colors フィルムカードセット(1月・2月柄)付き)』

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たくさんのアーティストのなかから俺たちに何かを感じてくれて、一緒に併走してくれてありがとうという思いですね。この29年間、「救われました」とか「勇気出ました」とかよく言われましたけど、「いやいや逆だよ」と。みなさんがいなければ今のGLAYはなかった。それこそ「赤ちゃんがいるからライブに来られませんでした」からの「今回は旦那のお母さんに預けてきました」みたいなファンレターを通してでも、もちろん想像の部分もあるけど、誰かの人生が垣間見える。そして、時折、ステージから「あの手紙のかたはどの人かな?」と探すんですよ。「ああ、あの人かもしれないな」って。コロナ禍は多くの方が亡くなられた。なかにはGLAYのファンもいらしたかもしれないし、僕らの周囲でも亡くなった人がいた。そんな経験を経て、今、ライブを通して一緒に過ごせている2時間は……バンドを続けてきたことのご褒美なんじゃないかなって。互いに励まし合って、これからもこの大変な時代を一緒に生きていきたい。その思いは「Buddy」を書くのに十分過ぎるぐらいの動機になりました。

やってるこっちも究極楽しかったですよ(笑)。あまり知られていない曲でも、こちらが一生懸命「楽しい!」「楽しませるぞ!」と思っていれば気持ちは必ず伝わると思う。トレンドの最前線を担うとか、広く知られている曲だけで、ある種、記憶再生装置としてみなさんの思い出を優しくなでるのもそれはそれでいいんだけど、俺が目指すGLAYはそうじゃない。人気曲がどうこうではなく、質のいいエンターテイメントの一端を担いたい。そこも30周年を前に勝負してみたかった今年のテーマでした。

TERUの函館ソングですね。こういう曲を聴くと同じバンドでありながらも、失ったものに対する捉え方が個々に違って興味深いですね。TERUはGLAYの太陽とも言えるフロントマンの立ち位置でありながらも、失くしたものをロマンティックに探す視線が感じられる。反対に僕は「失くしたものは追いかけるな」というタイプだし(笑)。僕らは付き合いの長い友達でもある分、かえってそれぞれの人生観を語り合うような機会もあまりないんだけれど、こういう曲を通して各々の本音を理解することも多いですね。函館という街がTERUに書かせたのかもしれませんが。

『NO DEMOCRACY』に収録されている楽曲、特に新曲について、その込めた思いを教えて下さい。まずは1曲目の『反省ノ色ナシ』は、シニカルな言葉が並んでいて<平成がせせら笑ってらぁ>と、GLAYが生きてきた平成時代を、憂いているようです。

自粛期間中、ライヴ活動は出来なくてもとにかく制作活動は止めたくないと思って、僕もいい機会だからコンピュータの曲作りを覚えたんですが、そのときに僕がアコギで仮歌を入れたトラックデータが原型でした。そこにギター、ベースを入れて、後からドラムやヴォーカルを入れた。これ、GLAYのなかでは異例なんですよ。僕らは大抵まずはリズムから録るので。ヴォーカルも確かTERUが仮歌として歌ったテイクをそのまま使っています。前回と今回のE.PはGLAYがコロナ禍をどう過ごしたかというドキュメンタリー的な曲たちを全て出しきって、来年はほとんどまっさらな新曲で行こうと。これは分かる人には分かると思うんですけど、要はサイモン&ガーファンクルの「アメリカ」(1968年)をやりたかったんです。ハモンド・オルガンやミックスはマイク・ブルームフィールドとアル・クーパーの『フィルモアの奇蹟』(1968年)。あのアルバムの1曲目もサイモン&ガーファンクルの「59番街の橋」のカバーでしょ。エンジニアさんにも「こういうミックスにしてほしい」とお願いしました。昔の「HELLO MY LIFE」という曲もそうだったけど、キックだけが左にあるとか変なところからギターのフレーズがくるようなアプローチが僕は大好きで(笑)。今回はいい機会だから思いきりやってみました。

先日函館に帰ったときも毎日TERUと一緒に遊んでいたし。16歳の頃の夏休みと何ら変わらなくて(笑)。あの頃に目指した理想のバンド像や大人像が僕の全てだったんだなあと改めて思います。僕、GLAYをやっていて「こんなはずじゃなかった」という思いが一つも無いんですよ。

カートやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンといった若くして散ったデカダンなロックヒーローには憧れました。一方、僕らは健康にワチャワチャとやれている。その恥ずかしさはあるけど、それでも今は「死んじゃダメだよ」と声を大にして言いたい。「もしも話」はナンセンスだけど、やっぱりジョン・レノンだってhideさんだって生きていてくれたほうが僕は嬉しかったし。きっとHISASHIにも彼なりのデカダンでいたい部分と、「いや。そうじゃなくて」という両方の思いがあるんじゃないかと俺は踏んでいますが。「HISASHI、お前、いいヤツだな」って思います(笑)。

『FREEDOM ONLY』ぐらいからそうだけど、やっぱり「THE GHOST」(JIRO作曲)がGLAYにもたらした影響は計り知れなくて。俺の中では、「このアプローチで10年費やしてもいい」とすら思っているぐらいなんです。「GLAYはもっと面白いバンドになる」という、あの予感の第一歩みたいなところはありますね、「whodunit」は。だから「whodunit」は、「THE GHOST」への俺なりのアンサーソングと言えるかもしれない。

ロスに住んでから、改めて日本の音楽を外から眺める機会が増えたんですが、いまJ-POPはアジアの他の国々の音楽に押されているけど、そもそもJ-POPってやっぱりめちゃめちゃ独特な音楽だったなあと思って。最近のトレンドは、例えばループするコードのなかでメロディが変わっていくとか、メロディであまり大きな振り幅を作らずに歌とパフォーマンスで見せていくというのが潮流だと思いますが、そもそもこんなに転調したりメロディが飛んだり跳ねたりするポップスってかなり特異だなあと。この先、20年か30年かかるかもしれないけど、これまでとは違う再評価をされて後世に残るんじゃないか?という、ある種の予感めいたものがあって。そもそもJ-POPの出自って端から海外を目指していなくて。国内に向けまくった結果こうなって、それが独自の進化を遂げて、今では海外でウケる曲も出てきた。相撲や歌舞伎や寿司みたいな感じで外に飛び出していくのをようやく僕たちはいま目の当たりにしている。YOASOBIの「アイドル」のように、J-POPを煮詰めた結果として生まれた高質な音楽が国内でも海外に認められるというケースは理想的なJ-POPのあり方だと思う。僕らはリアルタイムでJ-POPの真っ只中を駆け抜けてきたわけだし、90年代以降、歌謡曲とも演歌とも違う不思議な進化を辿ったJ-POPの古典を、ちょっとGLAYで引き受けたくなった。もっとピンポイントで言うと、僕らのルーツであるJ-POPという名前が付く以前の日本のロックのDNAを引き受けたくなったというか。

そういう暴力的なフレーズの魅力にも惹かれますね。だから次回は、ここ3作で追求したような難しい曲はやめようと思っていて。僕個人としては、観念的ではなく、より視覚的というか直球的な曲を書いて、それがそのままGLAY流のJ-POPに繋がっていけばと。

この曲のきっかけは坂本龍一さんへの追悼ですね。中学の頃から多大な影響を受けていたし、2000年前後は付き合いも深かったので。ここ何年も会っていなかったんですが、もちろん新作が出るたびに聴いていました。やはり亡くなったときはショックでした。でも音楽を聴けばまだそこにいるような気もするし……『The Sound Of Life』もそうですが、自分が作るピアノ曲の背景には、いつも坂本さんが心にいるような気がします。僕のなかではインスト音楽の母がマーク・ゴールデンバーグで父が坂本さん。特に『戦場のメリークリスマス』(1983年)と『音楽図鑑』(1984年)は、僕のなかでの坂本さんの最高峰です。ツアーのオープニングSE用に作ったんですが、坂本さんの音楽を自分の体のなかに入れた証として、坂本さんにおける「メリー・クリスマス ミスターローレンス」のような作品を世に残しておきたかった。だからジャッジャッジャッジャという間奏は少し坂本チックになっています。

うん。多分一つも無いな。職業になったのはあくまで後付というか結果論でね。例えば、言い辛いことは先に言おうとか、大事なことはメンバーだけで話そうとか、釣りの最中に次の活動プランを決めちゃうとか(笑)。そんな人間関係も含めて、あの頃から全くブレていない。しかも、今のところみんな健康で誰一人欠けることなくいられている。幸せですよ。メンバー全員がそれぞれにGLAYを大事にしていることとか、もう音楽性云々の話じゃないですからね(笑)。人生を懸けた大きな夢とか目標のために頑張る姿こそが、GLAYが一番ファンに伝えたいメッセージなのかもしれない。ヒーローになるための物語にはピンチも不可欠だしトラブルも大歓迎だけど、ここ10年ぐらいのGLAYにはとにかく事件が無い。だから多分ドキュメンタリーとか作ってもちっとも面白くならない!(笑)。

もちろんそれもあるけど、そもそも僕はコロナ禍で演者側もお客さん双方でコロナ禍以前のやり方が一旦全てリセットされたと捉えていて。例えばSNSの生配信で演者の人が画面に向き合って夜中に1、2時間話すとか、演者側もお客さん側も不安で互いに交流をしたくて、実際にそれが出来た。でもそれは、演者側の神秘性というか、ある種の魔法が解けた瞬間でもあった。互いに相手のテンションがより分かるようになった今、再スタートしたエンタメは絶対により良質なものでなければと僕は思う。これまでだって手を抜いた覚えは無いけれど、より入念な準備をしないと、ちょっとでも適当にやったらバレてしまうと思う。だからこそ、30周年を前に、改めて自分たちの曲を総ざらいして、ついでに弱点も潰して、それを踏まえたうえで新作作りにどう活かすかを考えたかった。そういう意味でこの2023年はGLAYにとってめちゃくちゃ有意義な一年になるはずです。個人的に更に言えば、今回のコロナ禍は、この音楽業界におけるGLAYの存在意義を見直すためにきっかけにもなりました。

2009年から各自がソロ活動を行う。2012年12月に、桑田とスタッフの間で35周年を迎えるにあたっての話が持ち上がったことがきっかけで、「ファンをはじめとした多くの人たちと、楽しめるときに大いに楽しもうじゃないか」とサザンの活動を再開をすることにメンバー5人の気持ちが合致した[注釈 63][391][392]。この活動休止期間は、2010年に桑田の食道がんによる休養と闘病、2011年に東日本大震災の復興支援のための「チーム・アミューズ!!」結成[43]や桑田の「宮城ライブ」の開催[393]などがあり、「これまでにない濃密な5年間」と振り返っている[391]。

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