結局岡田が許されなくて、村山が許された理由が未だに分からないんだが
仲良し気取ってて、岡田だけ追放って 仲良いなら一緒に辞めればいいのに偽善すぎるよな
76: 名無し48さん 2024/12/15(日) 14:32:14.85
>>2 村山も向井地もやめれていればここまでAKBは低迷しなかったな。 本人も悪いが、切らなかった運営も悪いな
3: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:13:05.77
そりゃいざとなれば自分がカワイイもんよ
4: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:13:21.91
村山さんの目標は大手事務所移籍だったから してやったりですね
5: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:15:42.26
そこが許せないんだよ。なぁだけがハメられたみたいで。
6: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:20:14.40
許した覚えないけど? むしろ責任取った岡田より無責任の村山の方が憎いんだけど こいつが出ない公演しか行きたくない
8: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:20:56.87
>>6 それな
10: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:23:12.49
推しが村山と仲良くしてるの見て冷める 村山は岩立向井地以外と喋るなよ
13: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:40:55.39
>>10 激しくわかりみ
15: 名無し48さん 2024/12/15(日) 10:46:54.94
男じゃなかったからだろ
18: 名無し48さん 2024/12/15(日) 11:14:48.30
村山はただの疑いでしかないからな
20: 名無し48さん 2024/12/15(日) 11:25:43.61
あれは本人のチョイスなのかね、制服は
22: 名無し48さん 2024/12/15(日) 11:29:36.12
いま現役48gメンバーでスキャンダル持ちは何人いるのかね
26: 名無し48さん 2024/12/15(日) 11:58:06.41
本人が完全スルー貫いてるだけで審判は何にも下されてない
引用元…★
結局岡田が許されなくて 村山が許された理由が未だに分からないんだが
釈放から一週間が立った。八月二五日に日比谷の東洋軒において、九月に上海で開催される世界反戦会議を支持するために、「極東平和の友の會」の発会式が執り行なわれた。「發企人は秋田雨雀、江口渙、長谷川如是閑他科學者文士等の百餘名であるが、婦人の側では野上彌生、市川房枝、長谷川時雨、林芙美子、望月百合子、平塚らいてう、坂本眞琴、窪川いね子、生田花世、神近市子、大田洋子、川崎ナツ、關鑑子の諸氏」133であった。昨年来、村山知義や蔵原惟人が投獄に処され、今年に入って小林多喜二が拷問死し、さらには、廃刊になっていたものの、『女人藝術』のかつての仲間である湯浅芳子が起訴により刑務所に送られ、同じ仲間の矢田津世子と富本一枝が検挙、取り調べの末、釈放されたばかりであった。こうした最近の一連の出来事について、「極東平和の友の會」の発会式に参集した女性たちは、それをどう受け止め、どのように話題にしたであろうか。プロレタリア文化運動の余儀ない終焉について口にする者もいたかもしれない。あるいは、別の誰かが、この年(一九三三年)のはじめのドイツにおけるアドルフ・ヒトラーの首相就任と共産党への弾圧について、詳しい情報を提供したにちがいなかった。さらにはまた、半年前の『婦人公論』誌上で扱われた「主義と貞操」も話題になったかもしれない。というのも、「共産党の検挙者に婦人が多い」という内容の東京朝日新聞の記事を受けて、「主義と貞操の問題」と題した特集をすでに『婦人公論』(一九三三年三月号)が組んでおり、この発会式に出席していた平塚雷鳥(らいてう)、野上彌生子、窪川いね子(佐多稲子)の三名も、その特集に寄稿していたからである。
このように傍証を積み重ねてゆくと、湯浅が「左翼方面へ運動資金として」提供したとされる三百数十円は、一九三二(昭和七)年の暮れころに、最終的に村山籌子の手に渡ったのではないかと想像されるが、どうであろうか。しかも、その支援を発案したのは、ひょっとしたら、ほかならぬ一枝自身だったのかもしれない。しかし、それを実証するうえでの根拠となる資料はなく、やはり、湯浅芳子を中心として計画された運動資金集めだったのであろうか。そしてそれは、たとえば共産党の資金局(あるいは金策係)のような組織へと、流れていったのであろうか。
一枝や陽の取り調べに際して、たとえ婦人であろうと、取調官がこうした強権的な態度を和らげるようなことは、おそらくはなかったであろう。そのとき、進歩的な人間の目からすれば明らかに悪法であったが、治安維持法という法律によって守られた取調官は、ふたりのことを、国家体制を転覆させる「国賊」とみなし、投獄や獄死をちらつかせながら、「転向」を強要したものと思われる。他方、一枝と陽の精神のなかには、知義と同じく「芸術家でインテリ」としての泉のように湧き出だす「自由と正義」が宿っていたにちがいなかった。この「自由と正義」に向けられた情熱は、このときの一枝や陽の行為が、実際には籌子個人への直接的な資金の援助ではなかったとしても、一枝と籌子を強く結びつける共有された精神として、その後も静かに持続していったものと思われる。というのも、一九四六(昭和二一)年八月に籌子が亡くなり、児童文学者協会と新協劇団の合同による告別式「村山籌子さんにお別れする会」が有楽町の保険協会講堂で開かれたとき、葬儀委員の一員として、蔵原惟人、関鑑子、原泉らとともに一枝もまた名を連ね、「個(ママ)人の思ひ出を語る」で、登壇することになるからである131。そして翌年(一九四七年)、知義の随筆集である『亡き妻に』(櫻井書店)が出版されたおりには、著者名も含めその題簽【図九】を一枝が揮毫する。一枝が死去して一一年が過ぎた一九七七(昭和五二)年に、知義もまた亡くなる。そのとき、葬儀委員長を務めたのが盟友の蔵原惟人であった132。
「美術の本質的価値とは、なんの関係もない」そうした血縁と階級が主として支配する美術の旧世界は、憲吉にとって許しがたい、最も嫌悪すべきものであった。憲吉だけではなく、それぞれの立場と考えから、この改組に疑問や不満をもつ会員が多く存在し、紛糾は続いた。結局、第一回の新帝展はその年の秋には開催できずに、年が改まった一九三六(昭和一一)年の春まで持ち越された。展覧会が終わると、紛糾は会員の辞意表明へと発展した。六月一三日の東京朝日新聞は、「帝院崩壊に直面」「六重鎮も文相に反旗」という見出しをつけて、日本画の小室翠雲と菊池契月の二氏が辞表を提出し、洋画の石井柏亭、安井曾太郎、山下新太郎、有島生馬の四名がそれに続く見通しであることを伝えている。そして、さらに続けて、「當局不信頼の爆弾的聲明」という見出し記事のなかで、和田英作、川合玉堂、鈴木清方、横山大観、梅原龍三郎、前田青頓、平櫛田中、富本憲吉を含む一四名の連名をもって帝国美術院会員辞任に関する声明書が発表されたことを報じた148。
リーチの一年あまりの日本滞在中に、憲吉とリーチのふたりは、結局、十分に心を通わせることはなかった。そして、一九三五(昭和一〇)年の五月に、リーチは帰国の途についた。ちょうどその時期、帝国美術院の改組劇が幕を開け、憲吉は、不本意ながらも、その劇のなかへと巻き込まれていくのである。一九三五(昭和一〇)年五月二九日の東京朝日新聞夕刊は、「帝國美術院改組 けふ閣議決定 院長には清水博士」の見出しのもと、次のような内容を伝えている。
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